福岡県指定史跡 亀井〔南冥・昭陽〕家の墓 由来
浄土真宗 本願寺派 浄満寺
前住職 井浦 順爾
昭和三十八(一九六三)年四月五日 福岡県指定史跡 亀井家(南冥・昭陽)墓地(十三墓碑)
昭和五十八(一九八三)年四月 国道二〇二号線(当時)拡張のため移設
平成二十(二〇〇八)年 浄満寺本堂再建事業に合わせて、同境内地内の墓地に移設
埋葬者 名
前列(右から) 後列(右から)
天地房 (大年居士) 昭陽弟 大年
昭陽 夫人(燁桂信尼之墓) 雲來夫人 (釋妙壮尼)
亀井 昭陽(昭陽先生之墓) 南冥長男 雲 來 (雲來亀先生墓) 昭陽弟 大壮
南冥 夫人(貞徽信尼之墓) 玄谷夫人 合祀 (藤澤孺人 墓)
亀井 南冥(白髪書童南冥亀先生の墓) 玄 谷 (玄谷先生 墓) 昭陽の子 蓬洲
千秋 夫人(釋妙心信尼墓) 南冥母 晹洲夫人 合祀 (高田孺人 墓)
千秋 翁(潮音道喜居士墓)南冥父 晹 洲 (晹洲先生 墓) 昭陽の子
雷首夫人 (少琴女史墓・綏之童女) 昭陽長女 雷 首 (雷首山人之墓) 少琴夫 三苫源吾
発掘調査の記録
浄満寺 総代 吉安 修 報告(昭和五十八年四月)
福岡県指定「亀井南冥墓及其の一区」移転顛末記 から
前列
燁桂信尼之墓 昭陽夫人 大甕 砂流入 骨片多数
昭陽先生之墓 亀井昭陽 大甕 水流入 頭蓋骨・四肢骨、かなり原形をとどめる
貞徽信尼之墓 南冥夫人 大甕 砂流入 骨片少々
白髪書童南冥亀先生の墓 大甕 砂流入 骨片あり 伝え聞く太刀一振りなし
釋妙心信尼墓 千秋夫人 大甕 砂流入 骨片アリ 蓋石に重ねた大石の裏面に文字アリ※参照
潮音道喜居士墓 千秋翁 小甕 砂流入 四肢骨ほか骨片少々
※ 孺人井上(浦?)氏諱徳後祝髪号妙心 水府城西浄満寺之産 配亀井潮音翁生二男三女
寛政二年庚戌十月二十二日 病卒享年七十有七葬干 浄満寺祔干翁伯魯以教授官 管本藩西学仲為僧名宗曄住持横嶽崇福寺
※ 孺人(高いくらいの人の妻)井浦氏、諱〔いみな〕は徳。後に祝髪(頭を剃ること)して妙心といわれた。水府城〔福岡城?〕の西、浄満寺の産〔生まれた〕なり。亀井潮音に配(つれあい・妻となる)し、二男三女を生む。寛政二年庚戌(こうじゅつ=カノエ・イヌ)十月二十二日病(やまい)卒す)なくなった。享年七十有七.浄満寺に翁(南冥)に祔(ふ=一緒に)して葬る(埋葬した)。伯(長兄)の魯(ろ=南冥)は教授の官(役)を以って本藩(福岡藩の)西学(西学門所)を管す(管理運営をした)。仲(次兄)は僧となり、名は崇曄(そうよう)。横嶽崇福寺を住持す。(住職となった)
参考
横嶽山・崇福寺 福岡市博多区千代四‐七‐七九 臨済宗大徳寺派 一六〇一年太宰府から現在地に移転 藩祖 如水が黒田家の菩提寺とした。
後列
雷首山人之墓 中甕 砂混入 骨片・毛髪多数 蓋石に文字アリ 亀井源吾柩 甕亀裂大につき交換
少琴女史墓 綏之童女(併記)大甕 砂混入 骨片少々 蓋石に 亀井魯道載妻脇山氏柩 とアリ
これは貞徽信尼(南冥妻)のもの 元に戻す 経緯不明
晹洲夫人 晹 洲 (合祀墓)大甕 砂流入 骨片多数 毛髪アリ 頭蓋骨二個
玄谷夫人 玄 谷 (合祀墓)大甕砂流入 骨片多数頭蓋骨二個 蓋石に文字 亀井義一郎柩父昱 書
雲來亀先生墓 小甕 表面茶青の釉拭 砂混入 骨片アリ 蓋石に文字なし
釋妙壮尼 小甕 亀裂激しくこれを取り替える砂混入骨片アリ 蓋石に文字 亀井佳乃永女
大年居士 小甕 砂流入 骨片アリ 頭蓋骨アリ 蓋石に文字なし
平成二十(二〇〇八)年の墓碑移設の記録は写真と共に克明に残していますが、特に、遺骨の一部については九州大学医学部からの申し出を受けて、学術調査がなされています。
浄満寺のこと
元亀四(一五七三)年(四三六年前)、初代浄心によって建立された、浄土真宗 本願寺派(西本願寺)の寺。現在地には承応三年(一六七一=三三八年前)に新大工町(現・大手門)から移転し、現在の本堂は文政八(一八二六)年建立。実に一八四年を経過した文化財的な建築物だが、平成二十一(二〇〇九)年七月から解体工事に着手し、平成二十二(二〇一〇)年十月に元の通り純木造建築で完成する予定。解体の理由は、平成十七(二〇〇五)三月の福岡県北西沖地震(平成十八年呼称変更)M7・0により被災したためである。
しかし冒頭に書いたように、今日皆さんが見学にこられた亀井家の墓は当寺墓地の北西の角地に移設しました。もちろん県の了解も許可も取り付けての話しです。これからの寺院の機能からしますと幼稚園もありますから、本堂前はなるべく広く開けておきたいと願ってのことです。
ここで一文を紹介しましょう。
森 鴎外「小倉日記」 明治三十三年九月二十日 より
二十日。午後浄満寺に到りて、亀井南冥の墓に謁す。寺は眞宗にして、地行西町五十番地に在り。今川橋畔の金龍寺の背後にして門南に面す。門を入りて左すれば、本堂右翼の前面に一区の塋域あり。即ち亀井一門の占むる所なり。墓碣(ケツ=イシブミ)は二列をなす。今本堂の正面に通ずる中道より見んに、これに近き内列に五墓あり。門傍らより数ふれば、曰ク表に蓬洲居士と題するもの、裏に亀井虞、子唐、義一郎、余長子(中略)昱誌とあり。曰ク雷首山人之墓、裏に亀井源吾諱復字應龍云々とあり。・・・・・・・・
と克明に記録していました。鴎外三十七歳、明治三十七年六月から明治四〇年まで、第十二師団軍医部長として小倉に赴任した時の記録です。
さてこれから皆さんが今日の見学を通して、どのようなことを学ばれるのでしょうか。
そもそも亀井南冥とは
慶長五(一六〇〇)年、関が原の戦いによって徳川幕府が開かれ江戸時代の幕が開いた。もともと筑前の国、現在の福岡県に相当する地域は小早川秀秋の支配する所であったが、彼は先の戦いの功績により備前岡山藩へ移ることになり、その跡地に豊前中津城主、黒田長政が移り五十二万石を与えられて成立したのが当藩である。当初は名島城を中心としたものであったが手狭であったため慶長六(一六〇一)年福岡城建設に着手し、五年後の慶長十一(一六〇一)年に完成した。しかし、明治維新後の廃藩置県により明治三年(一八七一)廃城となって今日では礎石と復元された一部の建物が当時を偲ばせる。
ちなみにこの年にアメリカではベースボール・リーグが発足し、初年度は九チームによって戦われたそうな。当時のチームで現存するのは、ボストン.レッドストッキングとシカゴ.ホワイトストッキングの二チームだけ。ついでに、この年は日本が近代国家へ踏み出すうえで重要な出来事が沢山ありました。例えば「新貨条例」により貨幣単位が円・銭・厘に統一、また郵便事業も東京・横浜・大阪で始まりました。
福岡藩となって約百年後の寛保三(一七四三)年八月二十五日に亀井南冥が誕生した。父・聴因、母・徳(浄満寺第三代住職、釋行空三女)と云い、母方の関係で当寺が菩提寺となったと考えられる。
医師であった父のもとで幼少の頃からすぐれた才能を発揮する少年だったようで、十歳の時に中国の欧陽詢の「九成宮醴泉銘」碑拓本の臨書(亀陽文庫に現存)をなし、十四歳の時に肥前(佐賀)蓮池住の、徂徠学派の学僧、大潮(八十歳)に会い、初めて徂徠派の学問や文芸に触れ、十八歳まで師事して後に大きな足跡を残すことになった。
一休み:欧陽詢は中国唐代の名筆家で、西暦六三二年に書かれた「九成宮醴泉銘」碑は今日の楷書の完成された書という高い評価を得たものです。臨書はその通りに練習する書道を志すものの第一歩です。
更に医学を修め後に父と共に福岡城下唐人町で開業したが、南冥の本分はやはり儒学の世界における高い識見にあると思われる。
儒教は、わが国に伝来し長い年月を経て江戸時代の元禄期(一六八八年~一七〇四年)から享保期(一七一六~一七三六)に思想的にも学問的にも成熟したと考えられる。しかし、享保を過ぎるとその学問も次第に衰退し、ちょうどその頃に南冥・昭陽親子が学問の上に登場したことになる。特に「論語」を中心とした思想の展開は、南冥にとって十四歳の頃に大潮から学んだ基礎的なものが一気に開花した感がある。
特に、二十一歳の頃藩命によって朝鮮修好通信使の接待使に選ばれ、博多湾頭にある藍島(相島)に逗留中の使節に自作の漢詩を届けたところ、「海友の奇男子」、つまり「日本の傑出した詩人」と絶賛されたというエピソードが残している。
ちなみに 「漢詩」はもちろん漢字を一行に五文字・七文字と並べて書かれていますが、やはり厳しい決まりがあり、特に「韻律」については日本人にはなかなか難しいと聞いたことがありました。その点昔の僧侶が書かれた漢文は、韻律を厳密にして書かれているとのこと。
順調に歩み始めた南冥は、安永七(一七七八)年、三十六歳で士分に取り立てられ藩主治之公の侍講を勤めることにもなる。ついで天明三(一七八三)年、願い出ていた念願の学問所設置が認められ、唐人町に甘棠館が開設された。福岡藩では貝原益軒の流れをくむ竹田定直を中心とした朱子学派の東学問所「修猷館」と、亀井南冥を中心とした西学問所「甘棠館」の二つが、東西の藩校として子弟の教育に当たることとなったのである。
なお甘棠の名は南冥の弟である昭陽の弟子、日田咸宜園を主宰した広瀬淡窓の著書に「甘棠一樹アリ。先候ノ園中ヨリ移シ種ル所ニシテ館ノ名クル所以ナリ」~甘棠は現在の梨の実、その木を治之候から頂き、藩主の治世をたたえて館の名とした~
後に西学問所甘棠館は藩命により取り潰されるが、東学問所修猷館は藩の公式の学問所として存続し、現在では福岡県内随一の名門校、修猷館高校としてその伝統が受け継がれている。
そして、この頃の出来事として南冥にも深いかかわりを持つこととなった出来事が起こった。この年の二月、志賀島で「金印」が発掘された事件である。南冥はこの検証に当たり、「金印弁」を著してこの金印が、建武中元二年(世紀五十七年)後漢の光武帝から倭の一国に授けられたものと断定した。現在この金印は国宝指定を受け、福岡市博物館に常設展示されている。一度ご覧になったらいかがであろうか。
特に最近は金印が偽物であるとか、南冥の策略であるとか諸説紛々、黄金色に耀く金印のみ事実を知り密かにほくそ笑んでいるのでは。
寛政異学の禁
順風満帆の南冥の前に大きな転機が襲うことになった。発端は中学の歴史教科書にも登場する松平定信の「寛政の改革」で行われた学問統制である。
幕府は前時代に襲った「天明の大飢饉」による幕府の統制力回復の手立てとして、農業の回復、社会秩序の再建が目標とされた中で、秩序を重んじる朱子学を正式の学問に据え、当時流行していた古学・古文辞学(文法を中心に扱う学問ではなく、孔子・孟子の言葉の意味を実践することに中心をおいた学派)を禁止した。幕府の学問所(昌平坂学問所)の講義も朱子学のみとなったが、今日の資料によれば、諸藩も幕府にならい国内の異学派も次第に力を失っていったようである。
一休み:天明の大飢饉は天明二(一七八二)~天明八(一七八八)の間に襲った日本近世史上最大の飢饉といわれ、全国での最終的な死者の数は三〇万~五〇万人と推定されています。ただ、各藩が幕府からの失政のとがめを怖れて正確な情報を出さなかった。岩木山、浅間山が相次いで噴火し、その直接的被害と日照低下による不作が重なり、政治的には田沼意次時代で、商業に重点を置く政策から米価の高騰を来たし、江戸・大阪では農村部から逃げ出した農民による打ちこわし事件も多発したとか。また、同じ時代にアイスランドのラキ火山、グリームスヴォトン火山が噴火し、噴出した有毒ガスは成層圏にまで達して、北半球に低温化・冷害をもたらしたとも言われています。福岡でも天明の飢饉の前に享保の大飢饉が記録され、この博多の町でも住人の三分の一の死者が出たと記録されています。その犠牲者を弔う「飢え人地蔵」が市内各所にあります。ちなみに飢は穀物が実らないこと、饉は野菜類が取れないこととか?
もちろん福岡藩においてもこの流れは変わらず、小さな出来事が次第に大きな事態の変化をもたらした。例えば寛政元(一七八九)年、太宰府政庁趾に「太宰府碑」を建てることを思いたったが藩命により建碑中止となった。撰文に藩意に反するものがあったと伝えられる。この碑はずっと時代が下って大正三(一九一四)年政庁趾に建てられた。
そして遂に寛政四(一七九二)年七月十日、五〇歳にしてすべての役を召し上げられ、終身禁足という処分を下され失意の時代が始まる。
しかし、その後も著作として「論語々由」、「論語攝要」等を世に出した。その後は長男・昭陽が家督を引き継ぎ、甘棠館は江上苓洲(墓所・浄満寺)が主宰したが、塾生は激減するなか、寛政十(一七九八)年二月一日唐人町の火災により、甘棠館も亀井家の建物すべてが灰燼に帰した。
長男・昭陽はこの時二〇歳であったが、甘棠館の教師の地位も追われ単なる平藩士の身分に落とされ、学者として遇されることもなく、文化三(一八〇六)年には烽火番係が命ぜられた。烽火番の仕事は、当時開国を迫ってわが国に接近する諸外国の艦船を見張り、各藩でも藩内の適当な場所に、合図の狼煙を挙げる場所を設けて対応していた。
このような亀井家にとっては激動のうちに、南冥は次第に言動にも異常を来たし、更に深酒に溺れて自分の殻に閉じこもりがちになり、文化十一(一八一四)年三月二日原因不明の出火によって、自宅が焼失する中で失意のうちに七十二歳の人生を閉じた。
そもそも亀井昭陽とは
亀井南冥三十一歳の時、安永二(一七七三)八月十一日長男として生まれた。聡明な頭脳の持ち主だったようで、十七歳の時「書経考」二巻、「詩経考」十巻を完成したという。大変な努力家であったことも「昭陽文集」に自ら青年期を振り返って、食事の時も書物をそばに置き、あるくときは必ず原稿を持ち歩き、常に懐にメモ紙を用意していたと述べている。
特に、甘棠館の時代には十八歳で門下生の指導に当たっている。昭陽の弟子と目される広瀬淡窓は修学時代を振り返って
「余ガ始メテ塾ニ入リシ時ハ、昭陽先生「礼記」ヲ講ジ玉ヘリ。其後「周礼」「尚書」「孟子」アリ。時刻ハ早朝ナリ。飯後ハ先生学館ニ出勤アル故ナリ。三日ニ一度ノ会読アリ。コレハ夜中ナリ・・・」と言った具合であったという。
生涯を通して著作も多く、また多くの人を世に送り出して活躍したが、時代は「寛政異学の禁」の時代であり、父南冥と共に反朱子学の立場を守り通す学者に対する評価は常に黙殺される時代性があった。著作のほとんども出版されることもなく、未刊のまま一部の学者だけが知るというだけであった。
当浄満寺の道を挟んで南側に位置する曹洞宗・金龍寺には、亀井一族と同じく江戸時代の学者「貝原益軒」の墓碑がある。
益軒は全国区の名だたる学者である。それに比して亀井一族は地方区の学者であり、また時代的にも評価されるどころか、政治的にも否定される中の活動であったことが今日の評価につながっていると言ってよい。
参考 貝原 益軒(一六三〇~一七一四) 江戸時代の朱子学者・本草学者 代表的な著作は「養生訓」(正徳二年―一七一二 八十三歳)
金龍寺 曹洞宗 福岡市中央区今川二―三―二三 一五〇八年建立 貝原 益軒夫妻の墓所 また大正七(一九一八)年 倉田百三
が病気療養のため逗留した。
その他の資料から 特に現修猷館高校母の会役員の、林由紀子氏〔筑紫女学園高校出身〕から提供頂いた(平成二十一年八月十九日)修猷館々長、中嶋利昭氏の書かれた雑誌修猷一四〇号巻頭言「修猷を想う~修猷館と甘棠館」を紹介する。
「天明四(一七八四)年二月、二つの藩校が同時に呱々の声を上げた。一つは上級武士を対象に朱子学を教える東学問稽古所修猷館であり、もう一つは下級武士や町人を対象に徂徠学を講じる西学門稽古所甘棠館である。
理論を尊ぶ修猷館と、実践を重視する甘棠館。やがて寛政異学の禁により朱子学以外の学問が禁止され、甘棠館の亀井南冥は館長職を罷免、甘棠館も消失、甘棠館の閉校が決まった。生徒全員は修猷館に編入されわずか十四年で藩校としての使命を終えた。」
推測するところ、修猷館高校の母の会の研修旅行の資料として作成されたと思われる『つながり』~甘棠館―日田―秋月を軸に~
この巻頭言に前に、「今年の研修旅行では、日田と秋月を訪れます。日田と秋月には、かって修猷館に一体化した″甘棠館〟を介しての強い『つながり』がありました。そして巻頭言に続いての資料を次下に紹介すると、日田で咸宜園を開いた広瀬淡窓と、秋月(黒田藩の支藩)の藩校稽古館の教授であった原 古処、どちらも甘棠館の門下生でした。
原 古処は、一七八四年に十八歳で甘棠館に入門、二十一歳で秋月に帰郷(註 養父原 坦斎病気のため)し、稽古館訓導に就任するが、その後も亀井南冥に示教を受け続けた。古処は大変優れた漢詩人でもあり、当時の秋月藩主(黒田長舒)は古処への信任も厚かった。従って、その師南冥の才学も高く評価され、南冥は毎月秋月で講義を行うほどであった。
結